白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、幕末篇を読了。正直な所、公太郎が死んでしまってからのこの物語はある意味オマケのような感もありますが、それでも並みの小説よりはずっと面白いです。この巻では前篇の最後で見事親の仇を討ったと思われた熊木城太郎ですが、そのうち勝ち番の調子のいい時にどうもあれは討ちもらしたんではないかと疑うようになります。それで生計のために赤松浪士団に入ったら、何とそこで副長をやっていたのが佐藤光之助(城太郎改め)です。熊木城太郎は公私の区別を付けるという条件で入団を許可されますが、私の時間に佐藤光之助に向かってストレートに、佐藤兵之助がまだ生きているかどうかを何度も聞いて辟易させます。ところで、光之助がこの浪士団に入っている理由ですが、佐藤菊太郎が最期の時に、熊木伯典も臨終を看取ってもらった名医小島玄融に診てもらうため、200両の金を調達する必要があり、同僚からそれを借ります。でその返却が滞り、ある商人から援助され、浪士団に入るということになります。小島玄融は熊木伯典の時も100両という高額のお金を要求し、そのために助一が盗みを働き、結局公太郎の死を招きます。その玄融が今度は佐藤家の跡取りの運命も狂わせてしまった訳です。この辺りは見事な構成と思います。しかもその玄融の子供は物が覚えられず20歳になっても文字も読めないというオマケが付いています。
それからこの巻では、忘れられていた(?)城太郎の妹のお君が登場します。お君は熊木家の没落により他家に養女に出され、その他家も没落して結局遊女に身を堕します。それを見つけたのが日光のお蓮というのが、ある意味話を作りすぎという気がします。ただ思ったのは熊木公太郎とお蓮の関係は新訳聖書でのイエスとマグダラのマリア(罪の女として同一視されている)と非常に良く似ていると思いました。お蓮が公太郎を好きになったのは、自分を百寄燈明から救ってくれたことももちろんですが、自分の売春婦という職業を公太郎がまったく気にせず蔑むようなことがなかったからです。イエスとマグダラのマリアの関係も同じです。
それからこの篇でのハイライトのシーンは、いまや息子の兵吾が江戸中ににらみを利かす大親分として出世し(何せ佐藤菊太郎と熊木伯典の両方の血を引くわけですから、才覚があるのは当然です)、何不自由なく暮らしていけるようになった老婆のお園の所に、自分の正妻には逃げられ、ビッコになり、また熊木城太郎には仇と狙われて、と尾羽打ち枯らした佐藤兵之助が、一生の中で自分を本当に愛してくれたのはお園だけだと、今さらながら自分勝手な愛の告白に訪れます。しかしお園は「今さらこの老婆に何を」と笑い飛ばしてしまいます。まあお園が困窮していた暮らしをしていて、それを裕福な兵之助がもう一度関係を戻したいと言ったのなら結果は違ったかもしれませんが、お園には今やこれ以上無い頼もしい息子が付いています。そして兵之助は失意のまま湯島天神に行き、実は熊木公太郎が素晴らしい人間だったことをようやく理解しその冥福を祈ります。そしてその直後に城太郎に発見され、今度こそ仇を討たれます。兵之助が新闘篇の冒頭で才気煥発な若者組のリーダーとしてかつ美少年として颯爽と登場した時と、何と見事な対照かと思います。
その他、脇役も清兵衛という奇妙なタバコ商人が出てきて、相変わらずこの手の不思議な人物を上手く考えだすものだと感心します。
読み直しも後一篇、明治篇を残すのみとなりました。
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