刑部芳則著の「古関裕而―流行作曲家と激動の昭和」を読了。著者は日本史家で、今NHKの朝ドラでやっている古関裕而夫妻の話である「エール」の風俗考証を担当されている方です。朝ドラのおかげで今何冊も古関裕而の本が出ていますが、ぱっと見た感じはこれが一番良さそうでした。歴史家だけあってきちんと事実に基づいて古関像を描いて行きます。
この本で初めて知ったのは、あれだけの生涯で5000曲にも及ぶ数々の名曲を作曲しながら、しかしコロンビアの専属作曲家としての最初の頃は中々芽が出なかったことです。同じコロンビアに古賀政男というもう一人の天才がいて、哀愁を帯びたいわゆる古賀メロティーでヒットを連発したのに対し、古関の曲はある意味正統的、クラシック的過ぎてヒットせず、当時新民謡と言われたご当地ソングみたいなものばかりを作曲していました。そういう時代の例外としては早稲田大学の応援歌である「紺碧の空」があります。これは早稲田としては七番目の応援歌であったにも関わらず、あっという間に人気が出て早大での一番有名な応援歌になります。(ちなみに慶応大学の応援歌も古関裕而で、こちらはかなり後になります。早稲田の方の歌詞の最後が「覇者、覇者、早稲田」となっているのに対し、慶応の方のタイトルは「我ぞ覇者」で早稲田への対抗意識が感じられます。)古賀に負け続けていた初期の古関裕而ですが、時代は次第に戦時色を強めて行き、古賀の哀愁調の曲から、古関の応援歌的スタイルが次第に受入れられるようになり、最初に大ヒットしたのが「露営の歌」でいわゆる「♪勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは」です。全国で出征兵士の見送りには必ずこの歌が歌われるほど人口に膾炙します。そしてその後も「若鷲の歌」(♪若い血潮の予科練の)、「ラバウル海軍航空隊」など、次々にヒットを飛ばすようになります。古関の軍歌は、軍隊の賛美一方ではなく、底にある種の哀愁を帯びているのが特徴で、戦時下の国民に非常に愛されました。
しかし、戦後になると、古関は自分が書いた「若鷲の歌」を口ずさみながら特攻に飛び立って行った若者も多くいたことを反省し、戦後は一転して平和の歌を書くようになります。代表曲として昭和のベスト50に間違いなく入る「長崎の鐘」、「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」などが作られます。しかし、その後古関の本領である応援歌調は再び愛されるようになり、その頂点が1964年の東京オリンピックでの「オリンピック・マーチ」です。この曲は今井光也作曲のオリンピックファンファーレと通常続けて演奏されますが、何と曲の最後では国歌「君が代」の「苔のむすまで」の部分が引用されます。これは実は戦前の「皇軍の戦果輝く」(昭和17年)とまったく同じでした。(「皇軍の戦果輝く」はここです。)著者は古関は一度書いたものはすぐに忘れてしまう人で、これは意識してやったことではないだろうとしています。
という具合に書いていると止まらなくなるのですが、古関裕而って本当にいいなと思います。この新型コロナウイルスのまさにそのさなかで古関裕而夫妻を主人公とする朝ドラが放送されているというのはちょっと不思議です。